虐殺の先鞭をつけた

 そして自ら朝鮮を侵略して行つた此猿英雄は一度でそれが懲《こ》らし得るつもりで、先づ廿六人の「侵略者」を長崎の立山で磔刑《はりつけ》にし、虐殺の先鞭をつけた。 家康は秀吉よりも一層切支丹を最初から嫌つてゐた。徳川の運命と同じく、切支丹の運命にとつて致命的であつた関ヶ原の決戦が済み、切支丹の最も有力な擁護者であつた石田三成、小西行長、黒田孝高等が滅び失せて後は元和八年の五十五人虐殺を筆頭に露骨に切支丹迫害が始められた。かくてそれ迄は自ら洗礼をうけ、或は切支丹に厚意を持つてゐた西国の諸侯は幕府の嫌疑を怖れるが故に改宗し、切支丹の討伐にかゝつた。そして爾後切支丹の根絶やしは徳川家代々の方針となつた。 寛永十五年正月、島原の乱が片付き、続いて南蛮鎖国令が出て後、天文十八年以来百余年の長きに亘り、二千人以上の殉教者と三万数千人の被刑者とを出して尚|執《しふ》ねく余炎をあげてゐた切支丹騒動なるものは一段落ついた様に見えた。「一つ時はほんに日本全国上下を挙げて靡《なび》いた位えらい勢ひぢやつたもんぢや。信長が本能寺で討たれた頃にや三十万からの生粋《きつすゐ》の信者がをつた相な。それが此通り消え細る迄にやお上の仕打ちも随分と思ひ切つて酷《む》ごいには酷ごかつたが、片つ方も、亦|執《し》つこいとも執つこいもんぢやつた。がかうなつて見れや此れや此国に切支丹が容れられなかつたと云ふなあ、夫《それ》が結局|天主《でうす》の御所存ぢやつたのかも知れんてな。」 こんな疑念がひそかに切支丹に厚意を持つ人々の念頭にもきざしかけてゐたその頃の事である。それでもなほ全国市町の要所々々には[#ここから1字下げ]      定きりしたん宗門は累年御禁制たり、自然不審なるもの有之者《これあらば》申出づべし、御褒美として ばてれんの訴人   銀三百枚 いるまんの訴人   銀二百枚 立ちかへり者の訴人 同断 宗門の訴人     銀百枚

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