旦那様、お米さん

       十八

「おお、あれは。」「お米でございますよ、あれ、旦那様、お米さん、」と判事にいうやら、女《むすめ》を呼ぶやら。お幾は段を踏辷《ふみすべ》らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干《てすり》の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝《つ》と来たお米、素足のままで、細帯《ほそおび》ばかり、空色の袷《あわせ》に襟のかかった寝衣《ねまき》の形《なり》で、寝床を脱出《ぬけだ》した窶《やつ》れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただしく越そうとする敷居に爪先《つまさき》を取られて、うつむけさまに倒れかかって、横に流れて蹌踉《よろめ》く処を、「あッ、」といって、手を取った。婆さんは背《せな》を支えて、どッさり尻をついて膝を折りざまに、お米を内へ抱え込むと、ばったり諸共に畳の上。 この煽《あお》りに、婆さんが座右の火鉢の火の、先刻《さっき》からじょう[#「じょう」に傍点]に成果てたのが、真白《まっしろ》にぱっと散って、女《むすめ》の黒髪にも婆さんの袖にもちらちらと懸《かか》ったが、直ぐに色も分かず日は暮れたのである。「お米さん、まあ、」と抱いたまま、はッはッいうと、絶ゆげな呼吸《いき》づかい、疲果てた身を悶《もだ》えて、「厭《いやッ》よう、つかまえられるよう。」「誰に、誰につかまえられるんだよ。」「厭ですよ、あれ、巡査《おまわり》さん。」「何、巡査さんが、」と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉《も》んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」 お米はただ切なそうに、ああああというばかりであったが、急にまた堪え得ぬばかり、「堪忍よう、あれ、」と叫んだ。

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