袂《たもと》から出した手巾《ハンケチ》

「袂《たもと》から出した手巾《ハンケチ》を、何とそのまあ結構な椅子に掴《つかま》りながら、人込の塵埃《ほこり》もあろうと払《はた》いてくれましたろうではございませんか、私が、あの娘《こ》に知己《ちかづき》になりましたのはその時でございました。」 待て、判事がお米を見たのもまたそれがはじめてであった。

       七

 婆さんは過日《いつか》己《おの》が茶店にこの紳士の休んだ折、不意にお米が来合せたことばかりを知っているが――知らずやその時、同一《おなじ》赤羽の停車場《ステエション》に、沢井の一行が卓子《テエブル》を輪に囲んだのを、遠く離れ、帽子を目深《まぶか》に、外套《がいとう》の襟を立てて、件《くだん》の紫の煙を吹きながら、目ばかり出したその清い目で、一場《いちじょう》の光景を屹《きっ》と瞻《みまも》っていたことを。――されば婆さんは今その事について何にも言わなかったが、実はこの媼《おうな》、お米に椅子を払って招じられると、帯の間《あい》からぬいと青切符をわざとらしく抜出して手に持ちながら、勿体ない私《わたくし》風情がといいいい貴夫人の一行をじろりと※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みまわ》し、躙《にじ》り寄って、お米が背後《うしろ》に立った前の処、すなわち旧《もと》の椅子に直って、そして手を合せて小間使を拝んだので、一行が白け渡ったのまで見て知っている位であるから、この間のこの茶店における会合は、娘と婆さんとには不意に顔の合っただけであるけれども、判事に取っては蓋《けだ》し不思議のめぐりあいであった。 かく停車場《ステエション》にお幾が演じた喜劇を知っている判事には、婆さんの昔の栄華も、俳優《やくしゃ》を茶屋の二階へ呼びなどしたことのある様子も、この寂寞《せきばく》の境に堪え得て一人で秋冬を送るのも、全体を通じて思い合さるる事ばかりであるが、可《よ》し、それもこれも判事がお米に対する心の秘密とともに胸に秘めて何事も謂《い》わず、ただ憂慮《きづか》わしいのは女の身の上、聞きたいのは婆《ばば》が金貨を頂かせられて、――「それから、お前がその金子《かね》を見せてもらうと、」 促して尋ねると、意外千万、

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